(k)night of SAVANNA #2
澄み渡った空は俺の気持ちなんか映してくれない。ただし漠然と広がる空間という意味では、俺の気持ちそのものなのかもしれない。雲はぽかんと気ままに浮かんでいるのではなく、実は身を寄せ合っているのだ。そうしなければ目視されることは出来ない。
太陽はもう高い。もうじき正午か。俺は校門にもたれ太陽を見上げているが、太陽は校門にもたれている俺を見下ろしてはいない。あいつは俺を目視できないのだ。俺は空に浮かぶ水の一滴を目視できない。
太陽は俺が捉えることのできない速度で西へ進む、と俺は認識するが、実のところ地球に隷属する俺が太陽から遠退けられるのだ。太陽は意思を持たずにそこに存在する。地球に隷属する俺も、その意思を汲まれることなく公転する。
俺は空になった缶コーヒーのスチール缶を太陽に向かって投げた。しばらくスチール缶は太陽に向かって進んでいったが、俺と同様に地球に隷属しているためにその進行方向を変えられ、フェンスを越えたテニスコートに落ちた。
秒速7.91キロメートル。地球と対等な関係を築くのに必要な速度。
秒速11.2キロメートル。地球の支配を断ち切るのに必要な速度。
部室まで出向くと中から笑い声が聞こえてきた。あの女はまだいるのか。扉を開けると温かい空気が溢れ出す。使えないと思われたストーブはどうやら役に立っているらしい。
「おぉ、レオ。今日は遅いじゃん」
声を掛けてきたワニをちらと見たが、ほとんど無視に近い。座椅子はハゲタカにとられている。ワニの隣にそいつが腰掛けていた。
「お前さ」
「有希だよ。昨日も言ったじゃん」
「……お前さ、いつまでいるんだよ」
「なんかさぁ、行くとこなくて困ってんだってよぉ。いいじゃんか、いさせてやれば」
そういうワニから目をそらしハゲタカを見る。また無視に近かった。
「あぁ……いいじゃん?困ったときはさ、ほら、お互い様だし」
ハゲタカの苦笑いを見て、ふと、今どんな表情をしていただろうと思った。
「なぁんだよ、レオぉ。何怒ってんだよ」
「別に怒ってないさ」
投げやりな言い方にならないように気を払う。実際怒っていないのだが。
ハゲタカがいきなり立ち上がって言う。
「あぁ!アレだ。レオは昨日のメシ代返してもらってないのが気に入らねんだろ」
「なぁんだよ。そっか、悪いな。俺が払うから許してやってくれよ」
ワニに肩を叩かれる。
「なんでお前が払うんだよ。そんなことで怒らねぇって。」
「うし、じゃあ俺が払う!」
「だからメシ代なんてどうでもいいって。俺はそこまでケチな奴か?」
そう微笑んでみたが、女は依然困ったような顔で俺を見ている。挙句ハゲタカが「悪い」と小声で詫びた。空気が生温かく気持ち悪い。なんだこれ。
「……サイは?」
「あ……さっき来たけど、また出てったぜ」
「そっか」
俺は部室を後にした。俺に向けられた畏怖の念が扉越しに背中に刺さる。一方的に向けられる畏怖ほど気持ちの悪いものはない。
部室棟を出て体育館の裏に回る。思ったとおりサイはそこにいた。なぜそこにいると思ったのか自分でも分からないが、そこにいるような気がしたのだ。サイは壁にもたれ、どこを見るでもなく視線を落としている。
「よぉ、変態」
サイは俺に視線を移し「あ?」と声を漏らす。俺はサイの脇にある女子更衣室の磨りガラスを軽く叩いた。サイはそれに気付き鼻で笑った。
「なんでこんなとこにいるんだよ」
「……別に、理由はないが」
「嘘付け、覗きだろ?」
「はっ……バカ言え。やめろよ柄じゃねぇ」
「部室に行かねぇの?」
「まぁ、な……」
サイは言葉を濁す。
「何、あいつがいるから?」
「……お前はどうなんだよ」
「そうだな……」
俺も言葉を濁した。
「行くとこないって困ってるらしいぜ。しばらくいるんだとさ」
「……そうらしいな」
「サイ、お前あいつのこと気に入らねぇの?」
「……別に。ただ面倒事が嫌なだけだ。それに気に入ってないのはお前のほうだろ」
サイはそう問うたが答えを待たずに部室のほうへ歩き出した。
「どこ行くんだよ?」
「……お前はそのまま覗いていくか?」
授業の終わりを知らせるチャイムが鳴った。
2.
人は命を持った瞬間に初めて自分という存在を確立できる。命を持った瞬間に「自分」と「それ以外」に全てのものを分類する。そして以降、任意の「それ以外」は「自分」と何かしらの関係性により隣接される。「f(x)=俺とxを接続する関係性の属性・性質」とするならば、y=f(x)は任意のxに対して1つ以上の解を持つ。
任意であるxには勿論、概念的なものも含まれる。時間、空間、数値、物理法則。この世界に“存在”している以上、肉体的、物理的な制約は許容せざるを得ないが、厄介なことに概念に影響を受ける範疇、つまり精神面に対してもf(x)は解を示す。
俺はここに立って、空間的座標を移動することなく、雑誌を読んでいるが、俺の精神は光速で時間平面を移動させられている。人は命を持った瞬間からf(x)により、肉体的、精神的に時間に支配される。
俺はコンビニで、昨日発売された週刊少年ジャンプを立ち読みしているが、すでに揉みくちゃにされている。ワニはこれを愛読するが、俺はどうもヤングジャンプのほうが好みだ。ジャンプを棚に戻しヤングジャンプを探すが見つからない。
隣にいるサイは、ビッグコミックと相変わらず渋い選択をする。ビッグコミックを選ぶサイの昼食は、いつもおにぎりか弁当だ。それにつけるお茶は言わずもがな伊藤園である。
ふと外を見るとハゲタカがこちらへ歩いてくる。パーカーのフードを被り、腹のポケットに両手を突っ込んでいる。肩をすくめ、俯き気味に歩いていたが、何かの拍子にこちらを見て俺と目が合った。ハゲタカはコンビニに入るとまっすぐこちらへ歩いてきた。
おそらく俺と目が合ったときから考えていたのだろうが、距離を見定めるようにタイミングを置いてから「おぉ、さっきはごめんな」と小声で言い、そのままサイの持っていた雑誌を覗き込んだ。「どうかしたのか」とサイが尋ねる。謝られるようなことはないのだが、それについて言い始めるとまた面倒なことになりそうだったからハゲタカの謝罪を受け取っておく。
「てかよぉ!サイがいるなら俺が買いに来なくてよかったじゃねぇか!」
「……あぁ、今日は俺が昼飯を買いに来る日だったか。悪かったな」
「別に謝ることねぇよ。ハイエナが来ないから昨日からジャンケン制になったんだ」
俺たちは3人で食品コーナーに回る。
「なぁ、ジャンケンで強く掛け声を言うと、相手が怯んでグー出しやすくなるって知ってた?」
「ワニはひねくれてるからチョキを出したって言いたいのか?」
「そうなんだよ!あそこでグーだしときゃよかった」
昼食を買い部室に戻るとワニがひとりソファに寝そべり漫画本を読んでいた。
「遅えーよハゲぇ!おーレオとサイも。どこ行ってたんだよ?」
「ハゲじゃねぇよ!……あれ、有希ちゃんは?」
「便所行った」
ハゲタカが使っていたのだろうか、テレビの前に置かれた座椅子を引き寄せ座る。背もたれの角度がいつもと違う。サイが立ったまま言う。
「……彼女、いつまでここにいさせるつもりだ?」
「何だよ、お前までそんなこと言って。困ってるって言ってんじゃん。別にいつまでいたっていいだろ」
ハゲタカがパンをかじりながら答えた。
「……だけど、考えてみろよ。いつまでもってわけにはいかないだろ。いつまでも隠してはいられない。それに、もうすぐ冬休みだ。休みの間はどうする?」
「そりゃ……まぁ、そうだけどよ」
ハゲタカが口を尖らせる。ワニは漫画本を眺めたままだ。サイが神妙な面持ちで俺たちを見渡す。部屋は沈黙に包まれた。
――ガラッ
急に扉が開いた。全員がいっせいにそちらを見る。
「……え、何?」
そこには有希が立っていた。部室の空気に戸惑ったようだが無理もない。
「あぁー、なんでもない。なんか静かになったときにタイミングよく扉が開いたからさぁ」
ワニが取り繕うが有希はそこに立ったまま一点を見つめている。その視線の先にサイがいた。サイが有希を睨んでいるように見えるが、睨んでいるのではなく神妙な面持ちのままそちらを見ただけだろう。だが有希は睨まれていると感じたらしい。
「あの、私何かしたかな?」
「……別に」
そう言ってサイは部室から出て行った。有希が困ったような顔で俺を見ていた。室内の雰囲気は最高に悪い。サイはなんで出て行ったんだ。気づくと俺はサイを追っていた。
「私、二人に嫌われてる?」
有希の声を小さく背後に聞いた。
俺がここに立っていて、相手が俺の目の前に立っていれば、俺はそいつの言動に喜びを抱いたり怒りを感じたりする。その感情は俺のものであるが、実は相手の言動によって引き起こされる。俺の感情は相手の言動に操られている。
いったいどれくらいの速さで走れば、俺はこの支配を抜け出せるのだろうか。
3.
「サイ、待てよ!」
サイを追って部室を飛び出した。すぐに追いつきその肩を掴まえる。
「……どうした?」
本当に何か分からないような顔でサイは俺を見る。
「どうしたって、俺がお前にそれを聞きにきたんだ」
「…………何を言っているんだ」
「なんだよ、急に出て行って」
「……いや、別になんとなく、いづらかったんだ」
「……あぁ、おぉ、そうか」
そんな事はたぶん分かっていた。わざわざ尋ねるほどの事でもない。俺はサイからその言葉を聞きたかったのではなく、たぶんそれを口実にして自分も部室から抜け出したかったんだ。
「……どうした、大丈夫か」
「あぁ、大丈夫だ」
「……そうか」
そう言ってサイはまた歩いていった。俺はその場に立ち尽くしていた。
悪い状況を回避することによって、状況はさらに悪化する。俺はひとり、ここに立っている。退屈な日常を、理不尽な偶然を、断ち切ることの出来ない隷属を許容せず。
慣れることが解決策であるはずがないだろう。順応と逃避は、思考停止だ。だけど俺はまだ、この行き場のない感情を消し去る方法を知らない。
心臓を掴むこの黒いものに、俺は昔にも一度遭ったことがある。あの時、順応と逃避により心の奥に押さえ込んでおいたあいつが、また出てきやがった。
神はサイコロを振らない。
アルベルト・アインシュタインの言葉だ。
我々が確率論を用いる理由はただひとつ。我々が神ではないからだ。サイコロの目が決定するのは、転がったサイコロが地面との衝突により運動エネルギーを失い、地面の上に静止し安定した瞬間ではなく、実は俺の手を離れた瞬間なのだ。俺の手を離れる瞬間のサイコロの持つ運動エネルギー、位置エネルギー、投射角度、サイコロの材質、地面の材質、摩擦係数、その他様々な数値が物理法則によって干渉し変化し、やがてサイコロは静止するのだが、それらの数値は俺の手からサイコロが離れた瞬間以降、変えることは叶わない。
全ては手を離れる瞬間に決定する。例えばこのバスケットボールも、サイコロ同様俺の手を離れた瞬間から、初速度、投射角度、重力加速度などによって割り出された放物線に沿って移動する。バックボードに衝突したボールは、バックボードからの反作用によって進行方向を変える。このときボールは運動エネルギーの一部を奪われ、そのエネルギーは熱エネルギーと音エネルギーに変換される。空気の振動、音となって跳ね返ったエネルギーの一部は俺の耳に入り、鼓膜を震わせ、電気信号となって脳に届き、俺は音を感じる。一方ボールはリングを潜り地面に衝突する。地面からの反作用により跳ね上がるボールは、このときもまたエネルギーの一部を熱エネルギーと音エネルギーに変換させられる。その音もまた、俺の耳に入る。バックボードに衝突して反射した音は、後ろの壁に反射し、また俺の耳に届く。上昇していたボールは重力により下降し、地面に衝突する。衝突の度にエネルギーを奪われ、しだいにボールの跳ねと音は小さくなる。これら全ては、ボールが俺の手を離れた瞬間に決定していたのだ。
だとすると、俺の行く先も、宇宙が神の手を離れた瞬間に決まっているのだろうか。俺はひとつの有機物塊に過ぎない。俺の表皮をつくる細胞。それを構成する水分、脂質、蛋白質。それらを構成する分子、そしてその原子。この原子は、俺の表皮のわずか外側に存在する空気のそれとほとんど違いはない。ただ原子を構成する素粒子の組み合わせが異なるだけだ。「T」と「L」の違い。横棒と縦棒、構成要素は同じだが、組み合わせ方が少し違うだけだ。だから俺は、俺を取り巻く空気やそこに転がるバスケットボールとなんの違いもない。
俺はただ、だだっ広い空間の中に存在していた。
不意に人の気配を感じ振り向くと、有希がボールを抱えて立っていた。目が会うと微笑んでこちらに向かって歩いてくる。俺はそれを眺めていた。俺の隣まで来ると持っていたボールを弾ませる。鞠つきみたいなドリブルだ。そしてそれを放るが、リングの遥か手前で落ちた。
「……えっと、ごめんね。」
「何が?」
「なんか、ふたりは私のこと気に入らないんだよね」
「そんなことないさ。ただ仏頂面なだけだ」
「そう……じゃあ、よかった」
そういってステージの縁に飛び乗るように座った。
「何してたの、ライオンくん」
「…………レオは獅子座のことだ。直接ライオンを示さない」
「へぇ」
本当に感心したかのようにそう言う。何を思っているのか掴めない。
「……お前、なんなんだよ」
「私?私は鈴木有希だよ」
「名前とかじゃなくてさ」
「うーん……何って、別に普通の女の子さ、普通の」
それじゃあ答えになってない、と目で諭す。困ったように笑い、冗談のように聞き返してくる。
「そういうレオは何者なのさ」
「俺は……」
「普通の男の子じゃない」
「俺は、素粒子の集合体だ」
「素粒子?」
「もう少し特徴付けていってやれば、素粒子の集合によって構成された有機物の塊さ」
有希は何か考え込んでいるようだが、それは俺の言葉を理解しようとしているのではなく、おそらくこの場を切り抜ける方法を考え出そうとしているのだ。それはたぶん逃避だ。
「全てのものに必ず答えが存在するワケではない、と思うのはその答えを理解できないからだ。理解できないから、存在しないことにしてしまっているだけだ」
「……うーん、難しいことは分からないけどさ、楽しく生きていけばいいんじゃないかな」
思考停止状態。
「俺はさ、お前って人間を嫌ってはいないけど、そうやって思考から逃げて問題を摩り替える考え方は嫌いだ」
俺はそう言い残し、有希に背を向け、その場から立ち去った。
「例えばその一瞬に刹那的な快楽を見出すだけの生き方に何の意味がある」
そう呟いた声が、俺が自らのエネルギーを消費し発した空気の振動が、彼女の耳に届いたかは分からない。
退屈な日常の中に身を置き、もしくはそれを解消するため刹那的な快楽を必死で見出し、理不尽であることに慣れることを恐れ、それでもこの世界に隷属されて生きることに、いったいなんの意味があるのだろうか。