(k)night of SAVANNA #6

 1.

 毛布を掛けられる感触で、俺は目を覚ました。顔を上げると有希がいた。壁に寄りかかるように座った姿勢で眠り込んでしまった俺に毛布を掛けてくれたようだ。

 部屋の中は暗かった。窓の外も、廊下も真っ暗だ。俺はどうしてここで眠っていたのだったか。まだ寝ぼけている頭で記憶を手繰り寄せる。

「そうだ。有希、大丈夫か?」一気に頭が冴えた。

「……うん。私、倒れちゃったんだよね。ごめんね、迷惑かけて」

 有希が体育館で倒れたのだ。しかしハイエナによれば、呼吸も脈拍もしっかりとしていて、恐らく倒れた原因は疲労とストレスによるものだろうとのことだ。とは言っても、医者でもない俺たちが、そんなことを断言することはできない。それでもハイエナが有希を病院へ連れて行こうとしなかったのは、有希に気遣ってのことか。

 それから俺たちは有希を部室へ運びいれた。しばらくはみんな残っていたのだが、最後まで残っていたのは俺だった。そしていつの間にか眠ってしまったらしい。

 昼間の事と同時に、ハイエナに言われた言葉も思い出された。

『君は、彼女を利用したいだけだ』

 実際そうなのかもしれない。俺は、俺を包み込む得体の知らない空虚感を、有希で埋めたいだけなのかもしれない。やはり有希がこのままここにいるのは望ましくない。

「有希……」

 ソファへと戻る有希を目で追いながら声を掛けた。有希は俺に目を向けつつソファの左側に腰掛ける。右半分が開いている。急に床の冷たさを感じた。

「隣、いいか」

 立ち上がりつつ尋ねると、有希はこくんと頷いた。俺は有希の隣に腰掛けた。今まで有希が眠っていたからか、ソファはとても温かかった。

「有希、やっぱり戻ったほうがいい。昼間は、あんな風に言ったけど」

 しかし有希は何も言わなかった。

「……何も、二度と会えないわけじゃない。会いに行くから」

「…………うん」有希は小さく頷いた。

 俺はその少し俯いた横顔を、すぐ隣でじっと見ていた。

 前にもこうやって、有希の少し俯いた横顔を見ていたことがあった。


「今度は俺の話を聞いてくれないか」

 俺は、有希の両肩に手を置き、有希の瞳の奥を覗きこんでそう言った。階段を一段上がった有希と、俺の目線の高さはちょうど同じだった。

 有希は少し困ったような顔をしたが、こくんと頷いて、再び階段に腰掛けた。俺もその隣に腰掛ける。

「俺は……」どうにか有希を引き止めたものの、何から話していいか迷う。

「俺は、退屈だった」どうにか言葉を搾り出した。

「……退屈」有希が小さく、その言葉を繰り返す。

「昔の俺は、どうしようもない奴だった。いろいろと適当にこなしていれば楽に生きていられたけど、適当に生きることに何の意味があるんだとか考え出して。そうしたらいろんなものがつまらなく感じられた。でも、高校に入って、あいつらと会って、今でもたまに考えてしまうけれど、でも少しは楽しめるようになった。……こんな言い方すると、危ない人間みたいだけどさ」

 有希はじっと俺を見て話を聞いていた。

「初めてお前に会ったときは正直変な奴だと思ったけど、でも今は……違ってたら悪いけど、お前は、俺と似てるんじゃないかと思う」思い切って言ってみた。

 有希はしばらく黙っていたけれど、やがて口を開いた。

「ごめんなさい。私、自分が不幸な風に思ってた」有希は窓の外の空に目を移した。

「……私、病気なんだ」有希はさらりと言った。けれどそれは平然を装っている風でもあった。

「もう何年も入院してるの。初めの頃は友達がよくお見舞いに来てくれたんだけど、そのうちだんだんと来なくなって、退屈だったんだ。外の人が、みんな幸せそうに見えた」

 有希は視線をゆっくり落とした。俺はその少し俯いた横顔を、すぐ隣でじっと見ていた。

「それで、病院を抜け出してきちゃったの」

 しばらく沈黙が続いた。普通でいい、という有希の言葉を思い出した。有希が望んでいるものを、俺は持っているのに、そのことに気付きもせず自分が不幸なように……。

「レオと私は、真逆だけど、おんなじなんだ」有希が細く呟いた。

「有希」いいながら立ち上がる。俯いていた有希が俺を見上げる。

「行こう」

「……どこに?」

「どこへでも。お前の行きたいところに」

 そう言って俺は有希の手をとった。


 ソファの後ろにある窓から日が差すのを感じて、俺は目を覚ました。遠くで小鳥の鳴き声が聞こえる。また、いつの間にか寝込んでしまっていたらしい。

 隣に、有希の姿はなかった。


2.

 廊下を走りながら、携帯のメモリーに有希の名前を探す。

 ――斉藤晋吾、坂下絢、佐藤敬一、佐藤孝明、渋谷亮司、須藤千佳…………。

 鈴木有希の名前はなかった。

「……あいつ、携帯持ってねぇじゃん」

 ハイエナにかけなおす。ハイエナはすぐに電話に出た

「ハイエナ!」

『レオ? どうしたんだ』

「有希がいない」

『え?』

「さっき起きたら、いなくなってた」階段を駆け下りる。

『いなくなったのは、どのくらい前?』

「知らない。ついさっき起きたら、もういなかった」

 階段を下りると、バスケ部の連中がいた。休みの期間中も部活動はある。この時間に自分たち以外の人間がいるとは思わなかったらしく、俺を見て驚いている。

「お前ら、パーカー着た女見なかったか?」

「え、いや、見てないっスけど」

 そんな言葉が返ってくると思っていた。俺はその返事を半ば聞き流して、部室棟を飛び出した。

「今、バスケ部の奴らがいた。有希のことは見てないみたいだ。あいつらが来たのは、多分10分とか、そのくらい前だろう」

『……うちの学校、夜間に教室棟や部室棟に入る扉を開けると警報がなるだろ? そのセキュリティは最初に来た教員が解除するはず』

「部活の顧問か? だとしたら……7時半くらいか」教室棟を迂回して正門に向かう。

『今が8時前。そのバスケ部員が来たのが10分前だとすると、間は20分間か』

「いや待て。有希はうちのセキュリティのシステムなんて知らないだろ?」

『知らなくても、警報が鳴らずバスケ部員にも見られていないって事は、そういう事だよ』

「あぁ、そっか。そうだ、有希の病院の番号知ってるか?」

『知ってるけど、20分じゃ戻れない。今電話したって無駄だよ。……レオ、ちょっと落ち着けよ』

 そう言われればそうだ。くそ。冷静さを欠いてしまっている。

「最大でも20分……。まだそんなに遠くには行ってないだろうな」

『とりあえず、僕も今からそっちに向かうよ』

 電話を切って、正門を出た。すぐにハゲタカにも電話を掛ける。ハゲタカはすぐには出なかった。発信し続けたまま、とりあえず最寄のコンビニに入る。足早に店内を確認する。店員に睨まれたが、有希がいないことを確認するとすぐに店を出た。

 そこでようやく、ハゲタカが電話に出た。

「ハゲタカ」

『……なんだよ、朝っぱらから』寝ぼけた声でハゲタカは言った。どうやら眠っていたらしい。

「有希が……」

『そうだ! あれから有希ちゃんどうなったよ』

「有希が、いなくなった!」

『えっ……?』

「とにかく、すぐに来い!」

『お、おぉ、わ、わかった』

「それから、サイとワニにも連絡しとけ!」怒鳴るように付け足して、ぶつりと電話を切った。


 それからあちこちと有希を探し回った。金はほとんど持っていなかったはずだ。電車に乗ったとも考えられない。

 そうしているうちに、ワニから電話がかかってきた。

「……ワニか。有希は見つかったか?」

『いや……ハイエナが病院に電話したけど、まだ戻ってきてないらしい』

「…………くそ」

『とりあえず、俺たちは学校の前にいるからお前も来い』

「……………………」

 有希の行きそうな場所なんて見当もつかず、俺は苛立っていた。

『おい、レオ?』

「……あぁ、わかった。一度そっちに戻る」

 くそ。どうして有希は、こんな風に消えたりしたんだ。


3.

 すっかり葉を落として裸になった桜の樹が、窓の外で凍えている。もうとっくに見飽きた光景だった。私のベッドは窓際だから、少し頭を傾けると嫌でもその光景が目に入ってくる。春には満開の桜がすぐ目の前にくるのだから良い眺めなのだけれど、冬のこの光景は、むしろ気分が滅入ってしまう。

「それじゃあな。また来るからな」

「はいはい。やはく会社に戻りなさいよ」

 向かいのベッドの榛原さんを旦那さんがお見舞いに来ていた。詳しくは知らないけど、どうやら榛原さんは病状があまりよくないらしい。それで旦那さんはしょっちゅう仕事を抜け出して、こうして奥さんのお見舞いに来ていた。

 旦那さんは私を一瞥して軽く頭を下げてから、奥さんに「じゃあな」ともう一度声を掛けて病室を出て行った。

「ごめんね、有希ちゃん。うちの、うるさかったでしょう」

「いえ。ホント、仲いいんですね」

「恥ずかしいわよ。こんな歳になってまで」

「うらやましいです」

 本音だった。私の両親は共働きで、たまの休みにしか見舞いに来てくれなかった。でもそれは私の入院費がかさんでいるからだと解っているし、それをひがむほど私は子供じゃない。けれど時々寂しくなることも事実だった。

 昔から病気がちだったが、高校に入学したあたりからますます酷くなり、入退院の繰り返しで高校にはほとんど行けなかった。当然、友達もできなかった。高校を卒業しても大学へは進まなかった。病気のことを考えると、ろくに行けるとも思えなかったからだ。アルバイトもしてみたが、すぐに体調を崩し病院に舞い戻る。そんな日々だった。だからもう、友達らしい友達なんていなかった。


 年が明けても、私は相変わらず退屈は毎日を送っていた。私の病状は退院できるほど良くはなかったけれど、寝たきりでなければならないほど悪くもなかった。だから私は病院内であれば自由に動くことができた。といっても、病院内じゃあ面白いことなんて何もない。売店で雑誌を立ち読みするくらいがせいぜいだ。ファッション誌は、入院生活が惨めになるだけだから読まない。マンガ雑誌をぱらぱらとめくるが、昨日も読んだものだからまったく面白くない。こんな小さい売店に、1週間退屈せずにいられるほどの雑誌が置いてあるわけは所詮なかった。

 病室に戻ると、榛原さんのベッドの手前に誰かが座っていた。私のほうに背を向けているから顔は見えなかったけれど、体格から旦那さんではないことが分かる。

「あ、有希ちゃん」榛原さんが私に気付いて声を掛けると、その人も私を振り返って「こんにちは」と微笑んだ。

「こんにちは」あぁ、たしか榛原さんのお子さんだ、と思い出しつつ、私も挨拶をした。

 前に2、3度会ったことがある。名前は英生くんだ。たしか中3だと言ってた気がする。冬休みにお母さんのお見舞いに来たのか。

 私は自分のベッドに戻りつつ、中3というと入試の時期か、などと考えていた。私は大学も専門学校も受験していなかったから、入試というものがすごく昔のことのように感じられた。

 足元のほうにあったキャスター付きのテーブルを手前に持ってきて、そこに突っ伏した。窓の外では例によって、裸の桜が寒そうに枝を風に揺らしている。空は薄い灰色の雲に覆われていた。

「寒そう」つい口に出た。

「え?」榛原さんが不思議そうに私を見た。

「いえ、あの樹が」

「この樹、桜よね?」榛原さんと英生くんも外の桜に目を向ける。

「はい。春になるとすごくきれいなんですけどね」

「そう、楽しみね」

「何言ってるんだよ」そう言ったのは英生くんだった。

「桜なんて咲く前に病気治して帰ってきてよ。父さんと二人じゃ大変なんだから」

「そうよね。ごめんごめん」

 そういいながら、榛原さんはもう一度桜の樹を見ていた。


 それから英生くんとは何度か会う機会があった。併願で受けた私立高校に合格しただとか、本命の公立高校はどこを受けるだとか、そんな報告を私は向かいのベッドで聞いていた。

 3月に入って、英生くんの公立高校の受験が目前に迫っていた。榛原さんは英生くんの受験が気が気でない様子だった。けれど当の本人はそれほど気負いしていなくて、榛原さんを見舞いに来るたびに、「僕の心配なんていいから、早く病気治してよ」なんて言っていた。

 英生くんの受験当日、榛原さんは朝からそわそわしっぱなしだった。ふと、私の両親も私の受験のときは、こんな風に心配してくれただろうかと思い出してみた。その朝は、二人とも「じゃ、頑張ってね」などと声をかけてくれただけで、普段と変わらず仕事に出かけた気がする。けれど、それはあまり見舞いに来てくれない両親への不満が、記憶を歪めてしまったものかもしれない、と思い直した。

「あぁ、心配だわ」榛原さんはずっとそんな調子だ。

「きっと英生くんなら大丈夫ですよ」

「そうかしらねぇ」

「はい。あんまり心配しすぎると、体によくないですよ」

 私は榛原さんにそう言って、いつもの売店に出向いた。


 マンガ雑誌を閉じて、棚に戻す。あまりにも退屈で、最近は少年誌にも手を伸ばしていた。けれど冒険物は、それまでの話を知らないから、何がどうなっているのかさっぱり分からなかった。

 ふと脇目に、売店の脇を駆け抜けていく人の姿が見えた。見ると、それは榛原さんの旦那さんだった。私は、慌ててその後を追った。

 病室に戻ると、榛原さんのベッドを先生や看護師さんが囲んでいた。その手前で、奥さんの名前を叫んでいる旦那さんが、看護師さんに取り押さえられている。

「あの、どうしたんですか!?」私も慌てて、その輪に入った。

「ああぁ、鈴木さん……」旦那さんは今にも泣き出しそうな顔をしていた。

「あの、榛原さんは?」

「あの、家内は?」旦那さんは、私がした質問をそのまま看護師さんに尋ねた。

「大丈夫ですよ。ちょっと下がっててくださいね」

 そういう看護師さんに、私たちは輪の外に追いやられた。廊下にも人だかりができていた。看護師さんたちに阻まれ、私は榛原さんの顔を見ることが全くできなかった。


4.

 榛原さんは手術室に運ばれた。旦那さんは先生から何かの説明を受けているようで、どこかの部屋に行っていたから、私は一人で手術室の前のソファに俯いて座っていた。

 誰かが走ってきて、手術室の前で立ち止まった。顔を上げると、それは英生くんだった。

「え……英生くん?」

「母は」英生くんは息を切らしながら、短く言った。

「どうして? 今日、受験じゃ……」

「抜けてきました。あの、母は?」

「私もその場にいなかったからよく分からないんだけど、今……」

 私は、赤く光る「手術中」と書かれたプレートを見上げた。私自身もこの状況を掴みきれなかった。英生くんは、どさっと隣のソファに崩れるように座り込んだ。二人とも何も話さずに時間だけが過ぎていった。

 しばらくして、看護師さんに付き添われて、旦那さんが来た。

「父さん」そう呟く英生くんに、旦那さんは黙って頷いた。

「鈴木さん。あなたは病室に戻りなさい」看護師さんにそう言われる。

「あの、でも……」

「大丈夫だから」

 その言葉に促されて、私はしぶしぶ自分の病室に戻った。

 病室では、同部屋の患者さんがひそひそと何か話していた。私が戻ると、みんないっせいに私を見たが、私はそれを無視して自分のベッドに潜り込んだ。布団を頭まですっぽり被ると、涙が滲んできた。


 どのくらいの時間がたっただろう。気付くと外はすっかり暗くなっていた。しばらくすると、榛原さんの旦那さんが病室にやってきた。榛原さんのベッドまで来て、肩を落としたまま、黙ってベッドの周りのものを鞄に詰めている。

「あの……榛原さんは……」

 私は恐る恐る尋ねた。旦那さんはぴたと手を止めて、黙ったまま涙をこらえる様子で、ゆっくり首を横に振った。私も涙がこみ上げてきて、病室を飛び出していた。

 向かう宛てもなく病院内をふらふらと歩いていたが、癖なのか気付くと売店の前まで来ていた。診察時間も終わっているから、売店もシャッターが下りていた。

 ふと見ると、明かりの消えたロビーの椅子に、英生くんがうずくまるように座っていた。近くまで行って声をかけたが、英生くんは黙ったままだった。私はその隣に腰を下ろした。

「……医者になろうと、思ってました」上ずった声で英生くんは言った。

「初めて母が倒れたのは、ちょうど1年くらい前のことです。そのとき母を診てくれた先生が、とても格好良く見えた。それに憧れて、僕も医者になりたいと思ったんです。馬鹿らしい理由だけど」

「そんなことないよ。すごく立派だと思う」

「当然なんですけど、医者もできないことがあると、今日知りました」

「憧れていたものに、裏切られた?」

「そんな。医者だって人間です。何でもできるなんて、思ってませんよ。でも、僕が抱いていた憧れは、良い面しか見ない自分勝手なものだったんだって」

「憧れなんて、たぶんそんなものだよ」

「医者になったとしても、僕もきっと、誰かに僕のような思いをさせてしまう。僕が憧れていたような存在に、僕はなれないんだなって……」

 私はなんて言えばいいか分からなかった。しばらく沈黙が続く。考えても分からなかったから、私はいつか少年誌で見た台詞のようなことを言ってみた。

「たぶん、完璧になんてできないよ。けど、君の力で君みたいな人を一人でも減らせれば、それはすごいことだと思うんだ。だから、そのために頑張ってみたらどうかな」

 それから、榛原さんの旦那さんが英生くんを探しに来るまで、私たちは何も話さなかった。



 あの時は塞ぎこんでいる英生くんの話を私が聞いていたけれど、今はまったく逆だ。英生くんが塞ぎこんでいる私の話を聞いてくれている。私たちは高校の近くに流れる川の端の下に並んで座っていた。水面は傾いた夕日に照らされて、オレンジ色に煌いていた。

 今朝レオを起こさないようにそっと部室を出てから、行く宛てもなくこの街をふらふらと歩いていたが、ついさっき英生くんに見つかったのだった。皆が私を心配して探してくれていたということに詫びたが、言葉が続かず塞ぎこんでしまっていた。

「鈴木さん。話してくれませんか」

 英生くんは丁寧に言った。このまま黙っていても仕方がない。ようやく決心をして、私は口を開いた。

「退屈だったんだよ、病院にいるのは」

「……はい」

 英生くんの声はやはり穏やかだった。その穏やかな声を聞いていると、話を進めることがためらわれたけれど、話し出してしまったんだからと観念して、私は続けた。

「あれからね、病気が悪くなって、手術しないといけないことになったの」

「えっ……?」

 英生くんの声色が変わった。それは当然のことだった。英生くんの知っている3年前の私は、退院は許されなかったものの、一応体調は良い方だった。こうして病院を抜け出すことは、勿論許されることではないけれど、英生くんの中でも大目に見られる範囲だったのだろう。けれど、実は手術をしなければならなかったのだ、なんてことになったら事情は変ってくる。

「……大丈夫なんですか?」大丈夫なんてことは勿論ない。それは英生くんも解っているはずだ。

「難しい手術なんだって。だから、どうせなら、その前に羽目をはずしたかったのさ」

 できるだけおどけた調子で言ってみた。英生くんは黙ってしまった。英生くんは優しすぎる。一般常識的な見地で相手に反論することをしない。できるだけ相手と同じ立場に立って話してくれる。だから私がこんなことを言うと、たぶん彼はすごく困ってしまうんだ。私はそれを解っていた。

「麻酔で眠ったら、もう目覚めないかもしれない。だから、死ぬ前に好きなことしたっていいじゃん」私はあえて『死ぬ』という言葉を使った。

「……死ぬなんて言わないでください。成功する可能性だって、充分にあるじゃないですか」

 私が病院を抜け出したのは本当に、もし手術が失敗しても悔いが残らないように、という思いからだった。けれど一度抜け出してしまったら、戻ったらきっと凄く怒られるだろうな、という恐怖からなかなか戻れなくなってしまった。

 だけど皆と会って、申し訳ないことだけど皆に心配してもらって、こうして英生くんと話していたら、何の根拠もないけれど、きっと手術は上手くいく気がしてきた。たぶん、今私は幸せなんだな。

「ありがとう」

「え?」

 私の言葉の意味を掴みかねている英生くんを尻目に、私は立ち上がった。

 胸いっぱいに、冬の冷たい空気を吸いながら、お母さんの心配した顔や、お父さんの怒った顔や、先生の困った顔を想像してみた。けれど、なぜかその顔は、とても可笑しく思えた。

 …………あれ?

 胸いっぱいに空気を吸い込んだはずなのに、なぜか息苦しい。まるで、貧血で立ちくらみしてしまったみたいだ。脳に酸素が届かない。重力を感じなくなる。

 あ、倒れる。そんなことを思っていたら、徐々に視界が黒く覆われていった。


5.

 ハイエナからの連絡を受けて、俺は病院へと向かっていた。心臓が壊れそうなほど鼓動は速かったが、まるで脳に血液が送られている感じはしなかった。俺は無心で走っていた。

 すでに外来の受付時間を過ぎていた病院は静かで、俺の足音だけが響いていた。薄暗い廊下を抜けていく。

 処置室の前に着くと、すでに全員集まっていた。ハゲタカは脇のソファに座り込み、今にも泣き出しそうな顔で、足をがたがたと震わせている。サイは腕を組んで壁に凭れ、処置室の扉をじっと睨んでいたが、やはりその顔に血の気はなかった。ワニは呆然とそとを眺めているようだったが、どこか遠くを見ている目をしていた。

「レオ……」

 ハイエナが俺に気付いて駆け寄ってきた。俺は息を整えながらハイエナを見下ろしていたが、言葉は出ない。俺は処置室の扉に目をやった。扉は無機質に冷たく輝いていた。

 もう一度ハイエナを見下ろした。しかしハイエナは、俺の後ろに目をやっている。振り返ると中年の夫婦が立っていた。

「お久しぶりです」ハイエナが前に出て頭を下げた。有希の両親か?

「榛原英生です」

「あ、榛原さんの……」有希の母親が小さく呟いた。

「彼らは」有希の父親はハイエナに尋ねながら、俺たちをぐるりと見渡す。

 俺は何と答えていいかとっさには判断できなかったが、それでも何か言おうと口を開いた。しかし、俺の言葉が発せられる前に、ハイエナがそれに割り込んだ。

「では、僕たちはこれで……」

「……おい」ハゲタカが何か訴えるように呟いた。

「……さぁ、もう行こう」ハイエナは、ハゲタカの言葉を無視して、そう促した。

 俺たちはしぶしぶその場を離れた。背後に有希の父親の視線を感じた。


「なんだよ、あれ」

 そう、吐き捨てるように言ったのはハゲタカだった。俺たちは処置室の前を離れて、受付のあるロビーに来ていた。すでに灯りは落ちていて、常時灯の弱々しい光だけが俺たちを照らしている。

「俺たちは、行く当てがないって言ってた有希ちゃんを助けてやっただけなのによ」

 しかし、誰も口を開かなかった。自分の動揺を抑えつけるだけで精一杯だったのだ。当のハゲタカも、有希のことに対する動揺のやり場に困っているだけだろう。

「なぁ!」ハゲタカが声を張った。それを見かねたハイエナがそっと口を開く。

「行方の知れなかった娘が見つかったと思ったら、それは倒れて搬送されてきたっていうんだ。しかも一緒にいたのが僕たちみたいな奴らだなんて……」

「だから、俺たちみたいのってどういうことだよ!」ハイエナの言葉を途中で遮って、ハゲタカがさらに声を張って言った。

「うるせぇよ!」それまで黙っていたワニが叫んだ。ロビーにその言葉が反響する。

「がたがた言うな。そんなこと言ったって、有希ちゃんが助かるわけじゃねぇだろ」

 今度は穏やかに、しかし力をこめてワニは言った。ハゲタカはしばらくワニをじっと睨んでいたが、「くそっ」と呟いて俯いた。サイが座るように促すと、ハゲタカはそれに従った。

 時計の短針はすでに高い位置を指していた。夜の病院はあまりにも静かで、かえって落ち着かない。俺たちの立てる微かな物音が妙に響いて感じられた。

 俺は長椅子に座っていたが、ふと立ち上がった。

「どうしたんだよ」ワニが尋ねる。

「ちょっと、外の空気を吸ってくる」

 そういって俺は、その場を後にした。


 外へ出る扉を開くと、冷たく澄みきった空気が俺を包み込んだ。今夜は特に冷える。見ると空からは真っ白な雪がはらはらと舞い降りていたが、しかし地上につくと儚く溶けて消えた。

 降りしきる雪の中で、俺は最後に聞いたあいつの言葉を思い出していた。

 昨晩、俺たちはとりとめもないことをずっと話していたが、暖かい毛布にくるまれ夜も更けると眠気が増してきた。眠ってしまう寸前に有希はふと呟いた。

『生きるって、こうやって人と触れ合っていくことなんだと思うな』

 その言葉を聞きながら俺は目を閉じた。


「……くそ」

 俺は空を仰いで呟いた。その言葉は白い息とともに、黒い空に消えていった。

 傍にあった時計が、カチリと小さな音を立てて12時を指した。

 つう、と涙が一筋、頬を伝った。



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