(k)night of SAVANNA #4

 1.
地下鉄に乗ると、ふと俺は今どこにいるのだろうかと考えることがある。自宅の最寄り駅から出る電車は、地上を走る。4つ目の駅で地下鉄に乗り換え、しばらくして電車を降り、地上に戻ると確かに高校の近所に出る。だが地下にいた間、どんな経路を辿ってここまで来たのか、皆目見当も付かない。それは、とても恐ろしいことだ。
車窓の外には、すぐそこまで壁が迫ってきている。それはとても閉鎖的で、俺が運ばれる方向を強制している。少し焦点をずらすと、窓ガラスに俺の顔が映る。金色の髪が、顎の辺りまでまっすぐに垂れている。生え際が黒い。俺は日本人だから当然地毛は黒い。欧米人に比べ、あまりに濁ったこの金髪は、偽物だ。
俺は、窓ガラスに映った俺の顔から目を逸らす。向こうにいるチンピラと目が合った。まぁ、周りの奴らから見れば、俺もおんなじようなチンピラだ。視線を窓ガラスのほうに戻し、焦点は流れる壁に合わせた。視界の隅でチンピラがこっちに歩いてくるのが見えた。面倒臭いな。今日は朝から気分が優れないというのに。
「おい、カズじゃねぇか!」
予想と異なるその台詞に、俺はチンピラの顔を覗いた。――島谷?
「おぉい、俺だよ。優摩。忘れちまったわけじゃねぇだろ?」
「忘れるかよ。あんまり奇遇だったからよ、なんつうの、言葉を失ってた」
この上なく面倒臭い奴に会ってしまった。これならチンピラに絡まれたほうがまだ良かった。
「なんだよ、優摩。知り合い?」
「おう、中学のときの連れでさ。……えっと今、S校だっけ?」
ここは地下鉄で、外の壁は寸分の隙間を開けてぴったりと車両を包んでいる。どうしたって逃げられない。
「あぁ、そう、S校」
「あ、こいつらは曽我と蔵原。同じ高校の奴ら」
曽我と蔵原(どっちがどっちか分からないが)が「ウス」とか「ドモ」とか言ってくる。申し訳ないが、今は再開を喜ぶ気にはなれない。そもそも、中学のときの知人には会いたくなかった。
「いやぁ、でも全然カズだって気付かなかった。なんつうか、お前らしくない格好っていうか。悪い意味じゃないぜ。まー、なんか変わったな」
ほら、そんな話が出てくる。変わっちゃあ悪いのか。
「何、真面目そうな奴だったの?まー、それが金髪でロン毛とか、ちゃらちゃらになったんじゃわかんねぇな」
曽我だか蔵原だか知らないが、会って間もないのに、よくそんなことが言えるものだ。
「逆、逆。ピアスとかじゃらじゃらつけてさ、髪も、左右で色も髪型も全然違うんだよ」
「え、中学生だろ?」
こいつらに、こんなにも不快感を覚えるのは、きっと昨日のことがあったからだ。だからこれは八つ当たりだ。けれど、そう思い直して、紳士的な対応をする気にもなれない。だから八つ当たりしているのだが。残念なことに、お前らの間が悪かったんだ。
「俺はさ、お前らが思いもしないことをやってるんだよ。昔も今も。優摩さ、お前は俺がこんな、大して奇抜でもない格好をしてるなんて、夢にも思わなかっただろ。だったらそれは物凄く俺らしいじゃねぇか。」
「あー……んん?よくわかんねぇけど。お前わかった?」
「んー、悪ぃ、わかんねぇ」
電車がホームに着いた。ようやく逃げられる。
「じゃあ、俺ここで降りるから」
「え、S校まだ先じゃね?」
「あぁ、今日はサボり。ここで連れが待ってんだ。じゃあな」

改札を抜け、地上に登る。降りるべき駅よりも3つ手前で降りた。ほとんど毎日聴いている駅名であるのだけれど、そこが地図上のどこに位置しているのか、情けないが分からない。さて、恐らく高校はここより北のほうにあるはずだ。

冷静になって考えてみれば、電車を降りた後、改札を出たりせずそのままホームにいれば、数分後には俺を目的地へ運んでくれる電車が来たはずだ。なのに、その考えに至らなかったのは、昨日のことに加え島谷に会ったことで、少しパニックを起こしていたのだろう。精神的なダメージから思考能力が低下していた。人間って弱い生き物だ。現に自分の立っている位置さえ分からない。そんなことを思ったりした。


2.

結局、街を彷徨った末に、高校に到着したのは11時前だった。部室の前まで行くと、中から物音が聞こえる。けれど人の声はしなかった。有希がひとりで何かしているのだろうか。そう思い扉を開ける。

「やあ、ワニ、久しぶり」

そう男が笑顔で言った。ハイエナだ。

「……びっくりしたぁ。なんでいんだよぉ」

「私物をとりにね。もう、あまりここには来ないから」

この時期、大学進学をする生徒は自由登校が認められている。それによってハイエナは、ここしばらく顔を見せていなかった。これ以降も登校するつもりはないから、今のうちに私物を持ち帰ろうということだろう。

「ところで、最近は君たちも部室に来てないの? 僕が来たときに誰もいなかったから」

そういえば部室には俺とハイエナだけだ。普段は俺が最初に部室に来ることが多いから他の奴らがいない状況を不思議には思わなかったが、今日はいつもと状況が違う。俺がかなり遅く来たにもかかわらず、他には誰もいない。

「あぁー、まぁ、ちょっといろいろあってなぁ。俺は単に歩いてきたから遅かっただけだけどよぉ」

「歩いてきたって、どこから?」

「3つ手前の駅」

「それは、その顔と関係あるのかい?」

顔? そうか、どうやらまた、顔に出ているらしい。

「そんなひでぇ顔してるかよぉ?」

「まぁね」

「まぁー、ちょっとなぁ」

ハイエナは腰ほどの高さの棚に凭れ、けれどまっすぐ、しかし力を抜いて俺を見る。気張らずに、それでもしっかり俺の話を聞いてくれる姿勢だ。紳士的な奴だと改めて思う。だから俺も変な装飾はなくして話すことにした。

「面倒臭いし、お前だからこう話す。こんな顔をしてるのはたぶん、今朝、島谷に会ったからだ。逃げ出したくてな、3つ手前で降りて、そこから歩いてきたんだ」

ハイエナは少し驚いた、というか新鮮なものを見た顔をしたが、俺の言葉よりも内容にひとまず目を向けることにしたらしい。

「そう、島谷くんに」と簡単に相槌を打った。簡単ではあるが、こいつにはこれだけで、俺の気持ちが分かるだろう。俺とハイエナは同じ中学に通っていた。当時はそれほど親密ではなかったが。だからハイエナは、俺が中学時代、いつも島谷とつるんでいたことを知っている。そして同時に、高校3年間の俺のことも間近で見ている。だからこいつは、俺が島谷に会いたくなかった理由も解っている。

「それと昨日、サイに『言葉遣いに気を抜くな』って言われた」

俺がそう加えたことで、恐らくハイエナは完全に理解したのだろう。初めこそ『言葉遣いに気を抜く』という聞きなれない言葉に、昨日の俺と同様に戸惑った様子だが、それでもすぐに意味を理解した。

「……そう」

全てを理解した上でハイエナが返した相槌は、また酷く簡素だったが、恐らくこれが正解だ。俺はハイエナに答えを求めているわけではない。フォローをもらって自分を正当化したいわけでもない。ただ理解してほしかっただけだ。

ハイエナと言う男はつくづく頭がいいんだな、と改めてそう思った。そしてよく人を見ている。

俺はハイエナに何かを求めているわけではない。だから幕引きも自分でしなければならない。

「大丈夫。俺の求めている答えは、時間をかけて見つけていくものだって理解してる。お前がそう教えてくれたことを忘れちゃいない。だから、俺は大丈夫だ」

「そうか。それは、とても素晴らしいことだ」

そういってハイエナはふわりと、凭れていた棚から体を起こした。「この話はこれで終わり」と、動作で言っているように思えた。

「ところで、このゲームを知らないかな? 中身がないんだ。僕はなくてもかまわないんだけど、処理されずに残ってると、後で面倒だから」

そういってハイエナは空のケースを掲げる。昨日、有希がやってたぷよぷよだ。

「あぁ、それならゲーム機の中に入ってんじゃねぇ?」

「え、これやってるの?」

笑いながらハイエナがゲーム機からソフトを取り出す。

「君がリクエストしたくせに、すぐに誰も使わなくなったじゃないか」

「まぁ、有希が見つけ出してきてな」

ソフトをケースに収めたハイエナの顔が少し曇る。

「あぁ、ちょっといろいろあってさぁ。最近ここに出入りしてるんだけど」

一応、寝泊りしていることは告げないでおく。けれどハイエナは黙ったまま俺を見ていた。

「別に変なことはしてねぇよ」軽い調子でそう加えた。

「いや、そんなことは分かっているけど……」


車や人ごみの騒音の中を歩いていた。馬鹿笑いをしながら歩いてきた女子高生の3人組とすれ違う。意味もなく腹が立った。

生きていく意味だとか、そんなものを考えていた時期が、俺にも昔はあった。そこで答えを見つけることのできた人間は幸福だと思う。大抵の場合、そうやすやすとは見つからない。俺も答えを見つけるには至らなかった。だけど、「馬鹿馬鹿しい」と考えることを辞めてしまってはいけないとも思った。思考を止めて刹那的な快楽に馬鹿笑いしながら生きていくのは耐えられない。けれど答えを見つけてもいない。俺はまるで宙ぶらりんだ。

一昨日の事があって、どうも昨日は有希と顔を合わせづらかった。そんなわけで一日中そのへんをふらついていたり、今日もゲームセンターに出入りしてみたりしたが、どうも一人では退屈だ。まったく情けないが。

コンビニに入ると騒音は遮られたが、店内に流れる音楽が耳障りだった。サイが青年誌でも立ち読みしていないかと期待したが、いたのはファッション誌を食い入るように見つめる有希だった。「なぁ」と声をかける。有希はこっちを見て「あ、レオ」と言ったがすぐに雑誌に目を戻して、「この人なんて名前?」と雑誌に印刷されたモデルを指差す。最近、電車の中吊りで見かけることが多い気もするが、まったく名前は分からない。

「知らない。お前、知らないの?」

「うん、わかんない。この人、バカみたいに顔ちっちゃいね」

意外だと思ったが、そんなことはどうでもいい。

「あのさ、悪かったな。この前は」

「……何が?」

「体育館で。あの時、いろいろと気分悪くて、八つ当たりみたいになってさ」

「……うん」

有希は何も思っていなかったのかもしれないが、こう返されると謝っているこっちとしては釈然としない。けれど、それについてとやかく言っても、また一昨日のようになるだけだ。

「なんでこんなとこにいるの?」

「……うん、ちょっと、部室にいづらくて」

「なんで?」

「……うん、ちょっと」

釈然としない。食品コーナーに回り、サンドウィッチとコーヒーを買った。出口のほうに体を向けると、扉の横に有希がちょこんと立っていた。俺とともに部室に戻るらしい。ひとりでは行きづらいということか。

「なんか持って来いよ。買ってやるから」

「……すみません」有希はそう頭を下げて食品コーナーに回った。


3.

 日常のなんともない一時、例えば今、高次方程式を解いているときなどに、ふと自分の行動の有益性について考えたりする。高次方程式なんて将来的に役に立たないじゃないか、などと阿呆のようなことを言うつもりはないが、それでもこの行動がどのように世界の発展につながっていくのか、俺の頭では分からない。

 俺は平和主義者だ。いや、本当は、平和主義とは俺の考え方のようなものを指す訳ではないのかもしれない。昔、平和主義について調べようとしたことがあったが、すぐに頭が痛くなって本を閉じてしまった。人に言えば笑われてしまうかもしれないが、俺は、人間がとるべき最大の行動は平和の追求だと考えている。人間は平和の追求のために行動するべきだ、と考えているため、今のように高次方程式を解くことの有益性を疑ってしまったりすることもある。

 けれど俺は、俺ひとりの力で世界を平和へと導くことなど、到底不可能だということを知っている。平和とは、全ての人間の協力の上にしか成り立たない。ひとりの力では実現し得ないが、ひとりが非協力的であるがために実現を止めることが在り得る。だから俺は近頃こう考えている。まずは、自分の周りの平和を実現させようと。

 そうこうしている間に授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、ふと我に帰る。結局、高次方程式は解けなかった。窓際にあるハゲタカの席に目をやる。ハゲタカは今朝からずっと机に突っ伏している。前の休み時間に、どこか具合が悪いのか、と尋ねたら、別に、と素っ気ない答えが返ってきた。

 昨日、ハゲタカと話した事を思い出す。レオは鈴木さんのことをどうやら快く思っていないらしい。ところがワニとハゲタカは鈴木さんの事情について理解を置いている。といっても、誰も詳しい事情を知らないのだが。それはこの際よいのだが、レオひとりが異質とならないよう、俺はレオの側に立ち回っていたつもりだ。ああ見えて、意外とレオは脆い面がある。俺は2年前のことを知っているから、なおさらそう思うのかもしれない。

 俺は、俺がレオの側に立ち回っていれば、左程荒波を立てることなく事態は収まるだろうと考えていたのだが、どうやら、というかやはり、そうもいかなかった。ワニもハゲタカも俺たちの行動を快く思っていない。どうしたものか悩まれる。

 ……いや、それよりもハゲタカの様子を気にすべきなのかもしれない。どうやら昨日の話とは関係はなさそうなのだが。俺は、ハゲタカはなかなか強い人間だと思っている。それがこの様子だから、かえって心配になる。

「……おい」

「……んー、なんだサイかー」

 そう、気のない返事を返してくる。

「なんだ、そんな顔して」

「んー……授業出ててもつまんねぇなと思ってさ」

「……だったら部室に行けばいいじゃないか」

「まぁ……そうかもしれないけどなー」

 よく分からない。

「メシ買いに行くぞ」

「あー、俺いいや。食欲ないし」

「……行くぞ」

 そう言って、無理やりハゲタカを連れ出した。何があったのか詳しく知らないが、気分を変えさせる必要がある。ハゲタカの背中を押して教室から出たときだった。不意に声をかけられる。

「やぁ、ハゲタカに、サイも。久しぶり」

 ハイエナだ。

「……あれ、なんだかハゲタカも元気がないね」

 その言葉が気にかかった。

「……ハゲタカ、も?」

「あぁ、さっき部室に顔を出してきたんだけどね、ワニもちょっと元気がなくて」

 ハゲタカに関しては何があったのか知らないが、ワニについては思い当たる節がある。昨日、ワニと別れた直後、俺は背中にワニの愕然とした様子を感じていた。俺はほんの軽い気持ち、といっても多少の啓発を含めたつもりではあるが、とにかくワニのその様子は思ってもいなかった。結局そのまま帰ってしまったのだが、何かまずいことでも言ったかと気になっていたのだ。

「…………部室へ行こう」


 ソファに寝そべり、ただ天井を眺める。部室には俺しかいない。遠くで生徒の笑い声がかすかに聞こえるが、とても静かだ。あいつらと喧しく笑いあっているのも勿論楽しいが、こうして独りで何も考えずふわふわ過ごしているもの、実はなかなか好きだ。

 恥ずかしげもなく言うが、俺はあいつらのことを親友だと思っている。けれどそれだけ親しい仲でも、自分の好き勝手に振舞うことなど勿論できない。人間同士、そんなもんだ。あいつらといるときの俺、女といるときの俺、家族といるときの俺、それらは完全にイコールではない。あいつらは俺のことを『ワニ』と呼ぶ。だから、あいつらといるときの俺は『ワニ』だ。

 けれどずっと『ワニ』でい続けることは少し疲れる。なにも悪い意味で言っているわけじゃあない。そういうものなんだ。だからたまには、こうして何も考えず、素の、川崎和仁でいる時間も大切だ。

 ただし、リフレッシュというのは、再び動き出すための活力を蓄えるためのものだ。いつまでもこうしている訳にはいかない。扉がガラリと音を立てて開く。そちらに目をやると、レオと有希が立っていた。

 意外な組み合わせだった。そう思って2人を見ていると、レオもこちらを見返してくる。悟られたかと思ったが、特に何もいわずに座椅子に座った。

「……ハゲタカくんは?」有希は入り口から動かず、細くそう言う。

「んー、今日はまだ見てねぇけど」そういってやると、おずおずと入ってきて、部屋の真ん中あたりにちょこんと座った。昨日、有希はハゲタカに連れられ部室を出て行ったが、そのとき何かあったのだろうか。レオも何か察したらしく、俺を見てきた。詳しいところは知らない、と目で返す。そこでふと、なぜか今朝ハイエナがぷよぷよのソフトを持ち帰ったことを思い出した。有希に伝えるべきか。

「あ、そういやよー」とそこまで言ったときだ。駆け足が扉の前で止まる音がする。3人同時に、扉に目をやった。しかし扉は意外にも静かに開いた。サイが立っている。ほんの少しして、ハゲタカとハイエナが追いつく。

 有希の表情が一瞬こわばった、というか驚いたようだというか、形容し難いがピリッとした雰囲気を感じだ。ハゲタカも何か気まずそうな態度だが、違う、有希が見ているのはその後ろのハイエナだ。



 ハイエナからワニの様子を聞いて、ほとんど衝動的に走り出したが、部室の扉の前まで来て、はたと足を止めた。一瞬、レオのことが頭を過ぎったが、それよりもワニのことを考えるべきだ。一呼吸置いて扉を開けた。

 部室にはワニと有希、そしてレオがいた。3人とも揃って俺のほうを見ている。レオがいたことは少し意外に思ったが、そのことで幾分気が楽になった。そして案外、ワニはなんともない顔をしている。いや、俺の単なる早とちりなら、それは幸いなことだ。ハイエナのことだ、初めに顔を合わせた時点で、何か的確な言葉をかけてやったのだろう。

 そこへハゲタカとハイエナが追いついてきた。2人はいきなり走り出した俺に戸惑い、レオとワニは焦って来た俺に戸惑っている様子だが、鈴木さんだけは違う表情をしている。何かピリピリしている様子だ。その視線の先を追うと、ハイエナだった。ハイエナも鈴木さんを見て、キッと目を細める。

 ハイエナと鈴木さんの間の不穏な空気が何によるものか分からないが、居心地の悪い沈黙がしばし続いた。

「……あー」

 その沈黙を間延びした声で破ったのはワニだった。

「ハイエナ、ほら、さっき話したさ……」

 ワニはとりあえず鈴木さんをハイエナに紹介しようとしたのだが、それを制したのは、ハイエナ自身の言葉だった。そしてその言葉に俺たちはさらに戸惑うことになる。

「久しぶりですね。鈴木さん」


4.

 まるで時間が凍りついたようだ。俺たちは身動き一つ取れなかった。この状況は、完全に俺たちの理解を超えていた。当の有希はといえば、困惑とも驚愕とも警戒とも違う、まるで悪戯のばれた子どものような、そんな表情だ。

 そしてハイエナは『久しぶり』という台詞のとおり、旧友に会ったかのような笑顔を浮かべているが、だが違う。恐らく頭では全く違うことを考えている。だとしたらそれは何だ? 有希もハイエナも、思いがけないところで旧友に会った、などといった状況でないことは一目瞭然だ。ハイエナは、俺たちが知らない有希の秘密を知っている。そして有希は、その秘密を俺たちに知られたくはないのだろう。有希の表情の正体はそれだ。

 その秘密と言うのが何かは当然、わからない。だがハイエナはそれを知っている。ここは部室で、ハイエナにとっても自分のテリトリーのひとつだ。そこにいるはずもない知人がいたら、『なぜここに?』と問うのが普通じゃないのか。だがハイエナはそう問うことはしなかった。つまり、その問いの答えが有希の隠していることなのか、あるいは回答の過程でその秘密に触れなければならないのかだ。ハイエナはそれを見越して、その問いをしなかった。

 なら、この空気を乗り切るには……

「おい、ハイエナ」

 俺のその言葉が再び時間を動かした。皆がいっせいに俺のほうに目を向ける。ただ有希だけは、ハイエナを見たままだ。

「なんだい、レオ?」

「なんだい、じゃねぇよ。久しぶりって、お前らどういう仲だ」

 その言葉で、有希が警戒するように俺に目を向けた。これも触れてはいけないことだったか? だがハイエナの回答は、気が抜けるほどなんともないものだった。

「小学生の頃住んでたマンションの同じ階に住んでたんだ。昔はよく遊んでくれて、ね?」

 今度は皆いっせいに有希に目をやる。

「うん。おっきくなっちゃって、久しぶりって言われても最初誰だかわかんなかったよ」

 意外にも有希は、さらっと、そう返した。有希がこう流暢にこの場を切り抜ける言葉を放ったことに一瞬驚きもしたが、この数日間、俺たちとの会話を切り抜け、かつ俺たちに疑問を持たせる余地を与えなかったことを考えると、この女は案外嘘がうまいのかもしれない。もっとも、ハイエナの言葉が全て真実だとすれば、有希が難なく返答できて当然なのだが、俺にはどうしてもハイエナの言葉が真実だとは思えなかった。

「なぁんだよ、そうだったのか。こんな偶然ってあんだな」

 ワニはその言葉で、とりあえず事態を収めることにしたらしい。恐らく皆、このまま問い詰めても今は答えが出ないと知っているのだ。そこから二言三言茶化すような言葉が飛び交ったが、ハイエナの言葉で再び部屋は鎮まることになる。

「鈴木さん、少し2人で話せないかな。……久しぶりに会ったんだし」

「……うん」

 部屋を出る2人を皆無言で見つめる。扉が閉まると、再び部屋は重い空気に包まれた。誰も、あんな嘘で納得などしていなかった。各々黙って何か考え込んでいる。腕組みをして壁に凭れ、しばらく2人が出て行った扉を見つめていたサイが、視線を俺に移した。

「なんだよ」

「……何がだ?」

 サイはいつもこうだ。悟られたくないことがあると、こうしてこっちの勘違いであるように振舞う。

「別に」そう言うしかない。サイはハゲタカ、ワニと順に視線を移して、部屋から出て行った。

 いつも五月蝿いハゲタカが珍しく静かだ。

「おい、ハゲ」

「……なんだよ」

「どう思う?」

「どうって、何が?」

「何って、ハイエナと有希が」

「そんなの、本人が言うんだからそうなんだろ」

 投げやりな答えが返ってきた。あるいは本当にそう思っているのかもしれない。けど、そう思っているなら、こいつは何を考え込んでたんだ?

「まぁ、さぁ……」ワニが口を開く。

「詮索してやるなよ。もし何か隠してて、でもあぁ言ってんなら、それは詮索してくれるなってことなんだろ」

「そりゃあ、そうかもしれねぇけど」お前だって気にしてるじゃないか、という言葉は飲み込んだ。けれど確かに、真実を知ったところで何の特にもならない。断言はできないが、おそらくその真実は、誰も幸せにしない。そんな気だけはする。だったら、なんで俺はこうも真実を知りたいと思っているんだ?

 たぶん俺は、あいつに期待してるんだ。根拠なんて何もないけど、俺が今まで見つけられなかったものを知っている気がするんだ。やり場のない空虚感を、あいつが消し去ってくれる気がするんだ。そう思うと俺は、ほとんど衝動的に部室を飛び出していた。


5.

 日中の部室棟はほとんど人がいない。一番奥にある西側の階段までを小走りにかける。部室棟に入るには2通りの方法がある。部室棟の東側にある1階の入り口から入る方法が1つ。教室棟と2階でつながっている渡り廊下を渡る方法がもう1つ。この渡り廊下も東側にある。教室棟のほうにも1階に入り口があり、そのすぐ隣に階段があるから、部室棟の2階に上がりたいときは、大抵教室棟の階段を上り渡り廊下から部室棟に入る。だから部室棟の西側に設けてある階段は、ほとんど誰も使わない。

 角を曲がると、見下ろした階段の踊り場に有希とハイエナはいた。有希が俺に背を向ける形で2人は向かい合っている。有希は俯いていた。ハイエナは真剣な眼差しで有希を見ている。ハイエナは紳士的な奴で、相手を問い詰めるときも表情で脅したりはしない。けれどそれがハイエナの怖さでもある。すでに話はついていたのか、それともハイエナが有希の返答を待っていたのか、俺が2人を見つけてから言葉が発せられることはなかった。

 有希の後姿を越して、ハイエナと目が合った。ハイエナの表情が緩むことはなかった。俺はハイエナに同じ眼差しを向ける。ハイエナは一度視線を有希へと戻して、有希の様子を確認すると、階段を俺のほうへと上ってきた。

「……レオ」ハイエナがそう声を低くして話しかけてきたが、俺はその言葉を受け取らず階段を下りていった。背後にハイエナの視線を感じる。

「有希」俺がそう声をかけても、有希は微動たりせずに俯いたままだ。顔を覗きこむと、薄っすらと涙が滲んでいる。階段の上を見ると、もうハイエナはいなかった。

「……有希」もう一度声をかけて、とりあえず階段に座るように促す。俺も有希の隣に腰掛ける。

「大丈夫か?」

「うん、ごめんね」

 こうしてここまで来てしまったが、何から聞けばいいのか戸惑う。何を聞いても状況は悪化するようにしか思えなかった。

「……ごめんなさい」有希は今度は改まった口調でそう言ったが、2つ目の謝罪が何に対してのものか分からない。

「迷惑かけちゃって」あぁ。けれど、実のところそう迷惑だとも感じていなかった。

「本当は自分がよくないことしてるって分かってたんだ」

「ハイエナとは……」思い切って尋ねてみると、有希は首を横に振る。

「ハイエナが英生くんじゃなかったとしても、いけないことだった」

 上手く話が掴めない。そりゃあ、事態の背景を知らないから当然なのだが。俺は、すでに覚悟はできている。2日前、体育館で話したときは、有希と向かい合わずに逃げてしまった。けれど、有希は俺の求めている答えを知っている、いや答えを知らなくてもそれにつながるヒントを与えてくれる、そんな気がしてならない。だったら俺は、まず有希を受け止めなくてはならない。

「なあ、辛いことかもしれないけど、お前のことを話してくれないか。お前のことを知らないと、俺はお前に何もしてやれない」

 けれど有希は黙ったままだ。そしてしばらく後、ようやく口を開いた。

「レオは生きてて楽しいって思ったことある?」

「そりゃあ……」そういいながら、俺は2年前のことを思い出していた。もしかしたら、俺とは遠い位置にいる存在だと思っていた有希は、実のところ俺と同じだったのかもしれない。だとしたら、あの時の俺なら、ほしがる答えは、

「……どうだろうな」有希がやっとこちらに顔を向ける。目に涙は浮かんでいなかったが、でもまだ薄っすらと赤い。有希の表情は和らがない。答え方を間違ったか? 俺と同じだと思ったのは勘違いだったのだろうか? よく分からない。この目は何を求めているんだ?

「まぁ、人生を諦めるほど絶望してるわけなんかじゃねぇよ。あいつらといるときは楽しいし……」

 うろたえ気味にそう加えた。覚悟はできてるなんて思ったけれど、有希をちゃんと受け止められていない現実に自己嫌悪したくなる。

「……私もね、楽しくなかったんだ。たまには楽しいこともあったけど、けれどそれはほんのちょっとの間で、あとは全部、退屈だった」

 その言葉に内心ほっとした。少なくとも俺の答えは間違っていなかったようだ。そしてやっぱり、有希は俺と同じ思いを抱いているのかもしれない。

 けれどそう思ったのも束の間で、すぐにまた思いがゆれる。

「私はね、普通でいいんだ」分からない。普通と言う言葉に、2日前のことが思い出される。

「俺は、嫌だ」恐る恐る口を開く。

「え?」

「普通なんて、自分の存在が掻き消されてしまいそうで」

「うん……」肯定を意味する言葉だが、有希の言葉にその意味は含まれていないように感じた。

 そのまましばらく沈黙が続いた。けれどしばらくすると有希はすっと立ち上がった。振り向いて俺を見る。その顔は微笑んでいた。

「ごめんね、なんか暗い話しになって。でも私は、別に自分のことを不幸だなんて思ってないよ。ちょっとね、ない物ねだりをしたくなっただけなのさ」

 語尾はいつものようにふざけた感じだ。ここで話を終わらせるつもりなのか。俺はまだ、何もお前のことを知れていない。

「待てよ」階段を上りかけた有希を呼び止める。

「ちょっと待ってくれ」両肩を掴み、身体をこちらに向けさせる。有希は階段を一段上っていて、ちょうど目線が俺と同じ高さになっていた。

「今度は俺の話を聞いてくれないか」


6.

 ハイエナと並んで、つり革につかまり電車に揺られる。今朝と同じ、濁った金髪の男が窓ガラスに映っていた。

「なぁ、ハイエナ」視線を少しずらして、窓ガラスに映るハイエナを見る。

「なんだい?」ハイエナは、真っ直ぐ前を見たままだ。

「有希って、何者だ?」

 ハイエナは目を閉じ少し俯く。そして一つ息を吐いて口を開いた。

「彼女は君たちに何も話していないんだろ? だったら僕が話すことはできないよ」

 ハイエナも窓ガラスに映る俺を見た。窓ガラス越しに目が合うが、すぐに俺は視線を逸らして本物のハイエナを見る。

「……ごめん」ハイエナは薄く苦笑いのような表情を浮かべ、視線を前に戻した。


 レオが部室を飛び出してしばらくすると、ハイエナが戻ってきた。部室にいた俺とハゲタカがハイエナに目をやる。ハイエナは何も言わずに頷いて、レオが座っていた座椅子に腰掛ける。

 ハイエナがハゲタカに目をやる。何か話しかけようとしたときチャイムが鳴った。

「あ、悪ぃ。俺、授業出なきゃならないんだ」ハゲタカがそういって立ち上がる。

「うん」それをハイエナは引き止めずに見送った。

 そんなやりとりをソファに寝そべったまま、横目で見やる。ハイエナは閉じた扉をしばらく眺め、そして今度は俺に目を向けた。

「……なんだよ」

「ハゲタカ、どうしたの」今日はハゲタカの様子がおかしい。

「さぁな」そう答えたけど、なんとなく想像はついた。

「そう……」ハイエナはまたハゲタカが出て行った扉をちらりと見る。

「お前もいい加減、世話焼きだな」自分も助けられていることを棚に上げてそう言ってやると、ハイエナは自嘲気味に笑った。

 しばらくしても、レオと有希は戻ってこなかった。俺とハイエナで、ハイエナが有希を連れ出したという西側の階段に行ってみたが、2人はいなかった。それから校内を探してみたが、やはり2人はいない。そもそも、生徒がまだ多くいる日中の校内を2人でふらつくとは思えないが。


 結局、放課後になっても2人を見ることはなかった。しかし、取り上げて困ることもないだろうと、こうして俺とハイエナは帰路に立っている。中学が同じだった俺たちは、帰り道もしばらく同じだ。

 窓ガラスに映る自分の姿を見て、今朝のことを思い出す。

「今朝、島谷に会ったって言っただろ」

「うん」ハイエナは、また真っ直ぐ前を見たまま答えた。

「あいつに会いたくなかったのは、今の俺を見られたくなかったからだ」

「……うん」ハイエナが俺のほうに顔を向けたのを、窓ガラス越しに確認した。俺は前を見たままだ。

「あの頃は、派手な装いをすることでしか、自分の存在を確かめられなかった」

「うん」

「この金髪が派手じゃないことはないんだろうけど、でもあの頃の俺とは違う」

「そうだね」

「島谷に、俺らしくないって思われたくなかったんだ」

「今の君は、君らしくないのかい?」

「いや。でも、昔の俺じゃあない」ハイエナは相槌を打ってこなかった。俯き気味に、何か言葉を捜しているようだ。俺はかまわず続けた。

「それはもういいんだ。俺は、自分で変わろうと思ったから」

「そう」ハイエナはまた視線を俺に戻す。

「外面ばかり気にして、磨り減っていくなんて俺らしくないと思った」

「うん」

「だけど、今の俺も同じじゃないかって、思うんだ」

「……同じ?」

「言葉とか仕草とか、他人と違うことで自分を確かめようとしてる」

 ハイエナはまた相槌を打ってこなかった。けれど顔は俺に向けている。俺もハイエナのほうを見ると、ハイエナはゆっくり口を開いた。

「自分らしさって、他人と付き合っていくなかで生まれるものだと思うんだ。人は、人と触れ合って育っていくものだと思うしね」俺は黙って頷いた。

「君はサイと違ってよく饒舌だとか、君はレオと違って人の助言を聞くとか、君はハゲタカと違って慎重だとか、それはとても君らしいことだと思うよ」ハイエナは、珍しく反対の意見を口にした。一見、俺自身を肯定するようだが、俺が俺自身を非難する言葉を言っているからハイエナの言葉は俺の言葉を否定するものだ。俺は頷かず、真っ直ぐハイエナを見るだけだった。

「……君が、今の君に自信を持ちたいのなら、こういう言葉を掛けてあげることもできる。でも、今の自分を捨てて変わりたいと言うなら、それもいいと思う」言葉の続きを聞いて、俺はようやく頷いた。

「どっちでもいいんだよ。君が、自分で選んだものならね」やっぱりハイエナらしいな。

「君が、もしもまた変わりたいと思って、そのとき僕に協力できることがあれば、僕は喜んで手を貸すよ」まったくハイエナらしい笑顔でそう言ってくれたが、その器量と自分を比べて、少し自己嫌悪したくもなった。

「なんでお前は……」

 その俺の問いを最後まで待たずにハイエナは答えた。

「君が僕を必要としてくれるなら、それはとても光栄なことだからね」

 そのとき電車の扉が開いた。ハイエナの降りる駅だ。ハイエナは、じゃあ、と軽く手を上げてホームへと降りた。俺も手を軽く上げると扉が閉まった。程なくして電車は走り出した。

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